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いよいよ新紙幣改刷!新紙幣に隠された技術と
紙幣偽造防止技術の歴史

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進化の歴史は150年超!
紙幣の印刷防止技術の驚きの歴史

私たちが日々安心して紙幣を使えるのは、高度な偽造防止技術によって紙幣が守られてきたおかげ。その背景には、進化する印刷技術に対抗すべく、試行錯誤しながら偽造防止技術を高めてきた歴史があります。印刷局創設当初までさかのぼり、日本の紙幣に込められた偽造防止技術の変遷をうかがいました。

・国産第一号の紙幣が発行されるまでは、海外で紙幣を印刷していた

江戸時代末期まで、各藩が発行していた藩札が紙幣として使われていたなか、1868年に日本で初めて全国で通用する政府紙幣「太政官札(だじょうかんさつ)」が発行されます。

「太政官札は単純なデザインと印刷技術ゆえ、簡単に偽造されてしまいました。そのため、高度な印刷技術を有するドイツやアメリカに紙幣の印刷を依頼するように。しかし、今度は海外で偽造されるリスクや紙幣の耐久性・輸入コストといった別の課題が出てきたのです」

太政官札。

そこで1871年に印刷局が創設され、1876年には東京都北区王子と千代田区大手町に製紙・印刷工場が建設されます。最新の機械を輸入し、外国から技術者を招いて、国内での紙幣印刷事業が開始。紙幣の印刷だけでなく、紙幣に用いる紙やインキも印刷局内で開発し、1877年に国産第一号となる“国立銀行紙幣”が誕生します。

「国産第一号の紙幣には、当時最新式の細かい地模様が施されており、それが偽造防止技術になっていました。また、紙幣に使用されているインキはすべて印刷局の特色(一つとして同じ色のない特別に調合した固有色のこと)です。再現が難しい配合なので、これも偽造防止につながっていました」

国産第一号の紙幣用紙(写真)は毛羽立ちやすく、紙質改善の取り組みが行われた。その結果、1881年に発行された紙幣から主原料として“みつまた”が採用された。

・1882年発行の紙幣ですかし技術が初登場。肖像も描かれるようになった

1882年に発行された“改造紙幣(政府紙幣)”で、偽造防止技術として初めて、すかし入りの紙幣が登場します。また、紙幣のデザインに肖像が描かれるようになったのも、この紙幣が初めてです。

「海外の紙幣では、権威の象徴として国王などの肖像が描かれることが多かったので、日本もそれに倣い、肖像を入れることにしたそうです。
また、細かい画線で表現した人の顔を印刷することは、偽造防止の一環としても有効でした。紙幣の原版は印刷局の工芸官が手作業で彫刻しており、画線には工芸官の個性も現れます。肖像に彫り込まれた画線はとても微細ですから、それらすべてを完璧に真似することは極めて困難です。さらに、人は人の顔の差異に気が付きやすいという特性もあることから、偽札との判別にも役立つのです」

原版の複製こそ機械で行われているものの、原版の肖像などの彫刻は、令和の世になった今も手作業で行われている。

現在の紙幣にも使用されている“白黒すかし” 技術が完成したのは1889年の“日本銀行兌換銀券(銀貨との交換が保証された紙幣)”から。

・明治・大正は試行錯誤の時代……失敗を繰り返しながら新技術を生み出した

紙幣の偽造防止技術が進化する一方で、一般的な印刷技術も向上していきました。明治になると写真製版技術の進歩にともない、現像した写真を用いた偽造なども発生していました。そのため、さまざまな偽造防止技術が講じられたといいますが、失敗もあったようです。

「例えば、1885年に発行された“日本銀行兌換銀券(だかんぎんけん)”(銀貨との交換が保証された紙幣)では、当時フィルムの現像時に写りづらかった白地に青という配色を採用していました。しかし、青インキの成分が硫黄に反応して黒ずんでしまうため、とくに温泉地などでは使えなくなることがあったようです」

日本銀行兌換銀券。

「そして1910年に発行された“日本銀行兌換券”(金貨との交換が保証された紙幣)では、現行紙幣ではおなじみの“すかし部分を空欄にする”というデザインが採用されていました。しかし、当時はこの空欄が世間に受け入れられず、かえって印刷ミスを疑われるといったトラブルが後を絶たなかったため、すぐに空欄はなくなってしまいます」

空欄のすかしに加え、肖像の顔周りに緑インキを用いることも世界基準で最先端な取り組みだったが、当時の人々から「菅原道真の怨念が現れている」と噂されてしまったとか……。

「明治から大正時代にかけては、上記のような失敗を繰り返し、紙幣デザインが頻繁に変わる時期でもありました。しかしそれは、世の中に登場する最新の技術、特に偽造に関係する技術に対抗するため、印刷局で研究開発を積み重ねた結果でもあるのです」

・終戦直後は全国で印刷を分担、品質やデザインの統一感は後回しに

日本の紙幣に大きな変化が訪れるのは第二次世界大戦後。ここから発行される紙幣は、改刷時期ごとにA券、B券とアルファベットで呼称されるようになります。

「A券は戦後まもなく発行されたものです。印刷局が被災していたことから、複数の協力会社が全国各地の工場で生産していたため、品質がバラバラでした。戦後の混乱が落ち着いたころに改刷されたB券からは、本格的に印刷局が復興し、製造を再開しています」

画像左がA券シリーズ、右がB券シリーズ。A券シリーズは民間会社がデザインしており、シリーズ全体の統一感に乏しいことがわかる。

・戦後の高度経済成長期以降、新たな偽造防止技術が編み出される

1955年頃から日本が高度経済成長期に入ると、印刷技術が急激に向上します。この時代に改刷された紙幣はC券シリーズと呼ばれており、新たな偽造防止技術が採用されました。

「C券シリーズの紙幣は、枠模様や地模様がカラフルで、色が茶色から緑、緑から茶色と、途中で変わっており、なおかつ全くズレないすり合わせで印刷されています。これは高度な“ザンメル印刷”というもので、一般の印刷機では再現が難しい印刷技術です」

「C券は当初、一万円札と五千円札しか発行されておらず、千円札はB券が使われていました。しかし、このころに千円札の偽造事件が多発します。そのため、1963年に千円も改刷されます。ここから、肖像が大きく描かれるようになります。これにより、より細かい画線で肖像の彫刻ができるようになったので、偽造防止の効果はさらに高まりました

枠模様が無くなり、肖像を大きく描くデザインに。なお、戦前に不評だった空欄のすかしも復活している。

・平成に発行された「二千円札」には革新的な偽造防止技術が取り入れられていた!

1984年には、肖像の人物が刷新されたD券シリーズに改刷されます。しかし、平成に入ってからカラーコピー機が進化し始め、紙幣の偽造リスクが高まりました。これに対抗するため、1993年に大きく2つの技術が追加されました。

「まずは“マイクロ文字”です。カラーコピー機などでは再現困難なほど微小な文字で、“NIPPON GINKO”という文字が印刷されるようになりました」

マイクロ文字。(画像=国立印刷局ホームページより掲載)

「もう一つは“特殊発光インキ”です。お札の表にある印を紫外線に当てると発光するインキが用いられるようになりました」

特殊発光インキ。(画像=国立印刷局ホームページより掲載)

2000年に開催された九州沖縄サミットを契機に、二千円札が初めて登場しました。この二千円札には革新的とも呼べるほど、たくさんの偽造防止技術が詰め込まれました。

「お札の右上に記載されている2000という数字には、角度により色が変化する“光学的変化インキ”が使われています。また“潜像模様” “パールインキ”なども取り入れ、紙幣を傾けると見え方が変わるつくりになっています。これまでの紙幣の基礎となる技術が二千円札ですでに用いられていたのです」

2000の部分に施されている“光学的変化インキ”。紙幣を傾けると、2000の部分が紫色に変化して見える。

“潜像模様”。紙幣を傾けると、額面数字およびNIPPONの文字が浮かび上がって見える。(画像=国立印刷局ホームページより掲載)

“パールインキ”。紙幣を傾けることで、紙幣の両端中央部がピンク色に光って見える。(画像=国立印刷局ホームページより掲載)

そして、私たちが使用しているこれまでの紙幣はE券シリーズと呼ばれるもの。二千円札で取り入れられた偽造防止技術を引き継ぎつつ、“すき入れバーパターン”、“潜像パール模様”、そして一万円札と五千円札に“ホログラム”が入るようになりました。

紙幣に棒状のすき入れを施した“すき入れバーパターン”。紙幣を透かすと、一万円札は3本、五千円札は2本、千円札は1本の縦棒が見える。(画像=国立印刷局ホームページより掲載)

“潜像パール模様”。紙幣を傾けると、角度によって表左下にパール印刷による「千円」の文字と、潜像模様による「1000」の数字がそれぞれ浮かび上がる。(画像=国立印刷局ホームページより掲載)

これまでのE券でホログラムが施されているのは一万円札と五千円札のみで、千円札には採用されていない。

2024年7月3日から発行が始まった新紙幣。この紙幣に施された偽造防止技術は、これまで印刷局が歩んできた紙幣発行の歴史の集大成ともいえるでしょう。次のページでは新紙幣に注入された技術を解説します。