著書『丁寧に暮らしている暇はないけれど。』がベストセラーとなった、編集者の一田憲子さん。「たとえズボラでも、いかに自分らしくこだわって、毎日を愛しんで暮らすか」を考え続け、自身のサイトでも発信している一田さんが、自身とは世代がまったく異なる20代の若い女性と出会ったら? 彼女たちなりの「自分らしい暮らし」へのこだわりと奮闘を、一田さんがレポートします。
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「イチダさん、最近の20代は、半径2メートルのことしか興味がないんですよ」。え~!
「無理して頑張らないで、自分ができること、できないことを整理して、堅実に歩んでいくんです」。ふ~ん。
「努力はするけれど、1か月経って結果が出なかったら諦めるんです」。なんと!
「サイキンノワカイコ」について、こんな話を聞いて、わあ、私の時代とはずいぶん違うものだ、と驚きました。バブル世代の私たちは、とにかく「ガンバル」ことがよし、とされていました。自分の能力以上のことを抱えていれば、伸び代を伸ばすことができるし、まだ見ぬ世界を知れば、新しい扉が開くかもしれない。そんな自分の中に眠っている可能性に心ときめかせたものでした。遊ぶことにも貪欲だったけれど、「1か月後に休むために、今ガンバル」といった具合に、「味わい楽しむ」よりも、「獲得する喜び」を重視する世代だなあと、振り返って思います。
でも、時代が変わり、景気は後退し、「頑張っても」どうにも打破できない状況が目の前に広がったとき、「サイキンノワカイコ」は、未来のために「今」を犠牲にすることをやめ、「今日」「たった今」を楽しむようになったのでしょうか?
「今から」「ここから」という若い子たちが、何を考えているのか? それを知りたくてたまらなくなりました。新たな思考のプロセスを知ることは、50代の私たちが、当たり前だと思ってきたあれこれを、もう一度見直すきっかけになるかもしれません。
さらに、迷い、悩み、焦っている若者に、何かを伝えられるかもしれません。20代と50代。普段は会うこともないこの組み合わせの中で、何かしら面白い化学変化が起こればいいなと、この連載をスタートしました。
第1回「シンデレラガール、雪七美の17㎡堅実暮らし」
第2回「清楚とロック、モデルとミュージシャン…タカハシマイの2つの顔」
第3回「女優・辻千恵が過ごす、ひとりの時間と戦いの時間」
第5回「女優・ yukinoの覚悟と渋好みなしみじみ暮らし」
「何者かになりたい」という大きな野望はない。ただ目の前にある“やってみたいこと”にまっすぐ向き合いたい––––宮崎 葉さん
ある時は、CMの動画の中でにこやかな笑顔で踊り、結婚情報誌の扉でウェディングドレス姿を披露。ある時は、雑誌に私服コーディネートで登場し、郊外のショッピングモールの広告では大きなポスターの中でにっこり。モデルとして今、次々と活躍の場を広げている宮崎葉さん。
私と同郷の兵庫県出身と聞いて、なんだかうれしくなって、いそいそと今回のインタビューに出かけていきました。
上京したのは4年前で、22歳の時。でも「本格的にモデル1本でお仕事をするようになって、まだ2年ぐらいなんです」と聞いて驚きました。それまでは、アパレルショップで正社員として働きながら、モデルを続けてきたそうです。まさに、たった今、花咲いたばかり! そして「今から!」「ここから!」という時期。そんな今しか聞けないお話を伺ってみました。
雑誌「mer」のオーディションでグランプリを獲ったのが、モデルとして仕事をするようになるスタート。関西在住だったので、月に1回東京での撮影に呼ばれて、日帰りで通っていたのだと言います。
若い頃からモデルさんになりたかったの? と聞いてみました。
「いえ、そんなにはっきりした思いはなかったんですよ。通っていた美容院でサロンモデルのようなことはさせてもらっていたんですが、元々は体育の先生を目指して大学に入って……。教員免許も取りました。でも、グランプリをとったのをきっかけに、自分のなりたい道が、ちょっとずつ変わってきたのかな、と思います」。
毎回、この連載でお話を聞きながら驚くのは、みんな「今までの道」に加えて、「もう1本の道」が見えてきたときに、「やってみたい!」と軽やかに、足を踏み換えることができるということ……。「いい学校に行って、いい会社に入って……」という古い価値観の中で、「失敗しないように」「道からそれないように」と、“堅実さ”を何よりの道標に歩んできた私にとって、ふたつの道のうち、「明るい方へ」「楽しそうな方へ」と選択ができることを、とてもうらやましく思いました。
実は葉さん、今もモデルをしながら週末は、チアリーディングの社会人クラブチームに所属し、大会に出場しています。その始まりは高校時代だったそう。
「高校のオープンハイスクールのときに、チアリーディング部が演技をしてくれたのですが、それがものすごく華やかで、たちまち惹かれちゃって。それで部活に入ることにしました」
大学生になると、今度はチアリーディングの社会人クラブチームに所属。
「高校では、自分たちで文化祭や地域のお祭りなどで披露していただけだったのですが、大学で入ったクラブチームは、ちゃんとチアリーディング協会に所属していて、演技をして、点数をつけてもらって順位を決める、という“競技のチア”でした。高校でやっていたこととはガラッと内容が変わって、ほぼイチからやり直すという感じでしたね。すごく苦労しました。周りはうまい人ばかりで……」
ふんわりとかわいくて、笑顔がキュートで……。そんな葉さんですが、どうやらとてつもないガッツの持ち主のようです。
「社会人のチームだったので、練習は週に2日だけ。本番に向けて演技を完成させないといけないので、手取り足取り教えてもらう、なんてことは望めませんでした。つまり、私を上達させるために練習時間を割くんじゃなく、うまい人たちが大会に出るために練習をするんです。練習に行って、音楽をかけるためのボタンを押しただけで帰ってきた、っていうこともあったなあ。今思い出しても悔しくなります(笑)」
それでも、先輩たちを見て覚え、合間にちょっとだけ仲間に入れてもらった少ない時間で演技をやってみる……。
「私、負けず嫌いなんです。せっかく入ったんだから、絶対に大会に出たかったし」と葉さん。
何かにトライしようとする時に、人は何によって喜びを得るのだろう? とこのエピソードを聞いてあらためて考えました。最初から「負けている状態」の世界へ飛び込んでいくなんて、その苦労は相当だったはず。「人に褒めてもらうこと」=喜びだったとしたなら、そんな選択はしなかったと思います。
葉さんには、はつらつとチアをするあの世界へ行きたい! というビジョンがあった……。だからこそ、オセロゲームのように「できない」を「できる」にひっくり返すプロセスの中に喜びを見つけられたのかもしれません。
大学4年間でチアリーディングをやり切ったのち、「就職どうしよう?」と考え始めました。
「教育実習にも行ったのですが、なんだかやっぱり先生は違うかもな……と思えてきて」
そんな時、あの「mer」のグランプリが降ってきたというわけです。
「もし、モデルをやるとしたら、教師とは絶対に両立できません。いろいろ悩んで、今自分が優先すべきなのはどっちだろう? と考えました。そして、モデルは今やらなかったら、たぶん一生チャンスがないだろうな、と思ったんです。ただ、モデル一本だと、東京に住んでやっていけるかどうかわからないから、両立できる仕事を……と探してアパレルに就職することにしました」。
その選択は、意外や堅実。
「副業を認めてもらえる会社を探しました。入社したアパレル会社は、そんな前例はなかったみたいなんですが、面接の時に一生懸命説明をしたら、ちゃんと聞いてくださって『それでも大丈夫だよ』と採用してもらえたんです。好きなブランドだったのでうれしかったですね」
こうしていよいよ上京。最初の2年間ぐらいはホームシックに。「東京の町に慣れなくて、早く帰りたい、心細い……ってずっと思っていました」と葉さん。それでも、帰らなかったのは「自分のすべきことが、明確にここにあるとわかってきたから」だったのだとか。
「モデルの仕事を続けてきたときに、やっぱり仕事の数とか、モデルさんの人数とかが、関西とは全然違うんです。頑張っているモデルの友達が周りにいて、事務所に所属して、マネージャーさんがいて……。そういう環境に身を置くと、自然に『やらなきゃ』『頑張ろう!』っていう気持ちになりましたね」
とは言っても、アパレルの仕事をしながらのモデル業は、仕事9割、モデル1割ぐらいのバランスだったそう。
「オーディションに行っても、まったく受からなくて……」
そんな中で葉さんは、大きな決断をします。1年半ほど勤めたアパレルの会社をやめることに。
「働きながらのモデル業は、やっぱり限界があって……。月の20日間は出勤という制限があったので、出勤日にオーディションが重なると諦めざるをえませんでした。マネージャーが店長にかけあって、仕事が入った場合には、出来る限りシフトを調節してもらっていました。でも、せっかくお休みをもらってオーディションに行ったのに受からない、ということが続いて……。結果が出ないことが、焦りやストレスになっていたんです」
まだオーディションにまったく受からないという時期に、仕事をやめるのは大きな決断がいったはず。生活の安定と、「やりたい仕事をする」ということは、なかなか両立しないものです。
私もフリーライターとして独立したての頃、お金が足らなくて、こっそり妹に電話をしてお金を借りたこともありました。それでも、就職するという安定を選ばなかったのは、やっぱり「フリーライター」としてやっていきたかったから。足下がす〜す〜する不安を抱えていたからこそ、真剣に「どうやったらライターで食べていけるか?」と考えたし、なりふり構わず必死になれたんだよなあと思い出します。
なかなか機会に恵まれないなか、仕事をやめた宮崎 葉さん。その彼女を待ち受けていたのは? 引き続き一田憲子さんが、葉さんがチャンスをつかむまでをともに追想します。