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平成時代はあと少し。知れば知るほどおもしろい!歴史学者が語る「元号」のハナシ

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平成時代の終わりまで、残すところあとわずかとなりました。天皇の生前退位は、江戸後期以来約200年ぶりとなります。新元号の発表はまだ少し先ですが、元号を通して歴史を辿ると、当時の時代背景や人々の思いと密接に関わっていることがわかります。

これまでの日本の元号は、平成を含めて247個。時代によって元号の重みや天皇の地位の高さも異なり、当時の時代背景を理解するのに、元号はとても重要な役割を果たしています。今回は、そんな元号の成り立ちからあらゆる時代の改元の流れまで、歴史学者の山本博文さんに話を聞きました。

 

中国発祥の元号は文明国の証。日本も独自の元号を使用

「元号はもともと中国発祥で、紀元前115年頃に前漢の武帝が『建元』という元号を定めたのが始まりです。その当時、日本は干支を使っていましたが、645年の第36代孝徳天皇の時代に、初めて『大化』という元号を使うようになりました。この年は中大兄皇子らが蘇我氏を滅亡させ、『大化の改新』を始めようという年。そこで中国の制度を取り入れ、“文明国の象徴”として元号を使うようになったのでしょう。中国の元号ではなく、日本独自の元号を定めたことに、日本が自立しているという意識が表れていますね」(山本博文先生、以下同)

「大化」を起点とする日本の元号。その後、江戸最後の元号「慶応」まで、実に243回も改元されています。

「平均すると、ひとつの元号あたりわずか5年ほどで、庶民にとっては縁遠く、干支を使うことが多かったようです。しかし改元は、天皇の代替わりといった慶事があった際はもちろん、国の繁栄や人々の平安を願って行うものでもありました。めでたいことがあったとき(瑞祥改元)、大地震や大火、疫病の流行などに見舞われたとき(変異改元)、厄災が起こりやすい干支の“辛酉”“甲子”の年など、人心を一新したいときに改元を繰り返してきました。さらに江戸時代には、将軍の代替わりでも改元しています」

平成2年に皇居で執り行われた、今上天皇の「即位礼正殿の儀」。31年目を迎える来年、2019年4月30日に退位され、翌5月1日より文字通り、新しい時代が始まる

 

元号は中国の古典を出典とし、吉兆の漢字から選ばれる

そもそも改元は、誰がどのように担っていたのでしょうか?

「元号制定手続きが完成されたのは平安時代で、大臣が天皇の命を受け、文章博士らに元号案の『勘申』を命じるようになります。新しい元号を考案する者を“勘申者”と言い、彼らは四書五経などの中国の文献から元号の候補を考案しました。その後、鎌倉時代は武家が介入し朝廷が決定、江戸時代は幕府が決定していました。ちなみに日本の元号はすべて中国の古典を出典としており、これまでの247個の元号で使われている漢字はわずか72文字。元号には吉兆の漢字を選ばなくてはならず、自ずと重複してしまうのです。平成も『史記』の“内平外成”と『書経』の“地平天成”を出典としています」

当時の竹下 登首相も「平成」に対し「国の内外にも天地にも平和が達成されるという意味が込められている」と述べていました。

「平成は、国民主権を明記した日本国憲法のもとで初めて制定された元号です。昭和54年に大平正芳内閣が定めた要項によると、元号は①国民の理想としてふさわしい良い意味を持つ、②漢字2字、③書きやすい、④読みやすい、⑤これまでに元号またはおくり名として用いられていない、⑥俗用されていない、以上に留意するものとあります。次の新元号も同様のことが求められるので、何に決まるか期待したいですね」

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皇居で毎年、天皇誕生日の12月23日と正月の1月2日に行われる一般参賀。2018年正月には、退位を前に、平成時代で最多の12万人超が詰め掛けた

 

元号にまつわる知っ得&おもしろエピソード5選

ここでは247個の元号のなかから、9個の元号をピックアップ。元号の知識をもっと深めたくなる、知っ得&おもしろエピソードを紹介します。

 

養老(ようろう)=奈良時代・717〜724年

手がスベスベになったため瑞祥の改元を実施
当時の元正天皇は霊亀3年(717年)に近江・美濃国に行幸。その途中、当耆郡多度山の美泉(現在の岐阜県養老町)を訪れた際、「手面は皮膚が滑らかになった。痛い箇所につけると痛みがとれた」という。そこで帰京後、「霊亀」から「養老」に瑞祥の改元が実施されました。

 

天平感宝(てんぴょうかんぽう)、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)、天平宝字(てんぴょうほうじ)、天平神護(てんぴょうじんご)、神護景雲(じんごけいうん)=奈良時代・749〜770年

日本の歴史上で唯一元号が4文字だった時代
「天平」の後、「天平感宝」〜「神護景雲」の間は4文字の元号が用いられました。これは聖武天皇の皇后の光明子が、690年に中国で武周朝を建てた則天武后にならったもの。天智天皇(中大兄皇子)の孫の光仁天皇が即位した際に「宝亀」に改元し、それ以後は2文字で定着しました。

 

建武(けんむ)=南北朝時代・北1334〜1338年/南1334〜1336年

後醍醐天皇の強い意向で光武帝時代の元号をそのまま使用

この改元は後醍醐天皇によって行われ、光武帝が新の王莽を滅ぼして後漢を復興させたときの元号「建武」にちなんでいます。「武」は争いを連想させる不吉な字として元号にはあまり使用されませんが、この時代は軍事力を誇示するために敢えてこの字を入れたとされます。

 

応永(おうえい)=室町時代・1394〜1428年

使用期間は33年10か月。昭和、明治に次ぐ3番目の長さ
「一世一元の詔」が出される以前では最も長く続いた元号。応永ほどでなくても、室町時代は比較的長く続いた元号が多いです。というのも戦国時代には公家たちが戦乱を避けて地方に避難しており、勘申の適任者がおらず、改元しようにもなかなかできなかったため。

 

明和(めいわ)=江戸時代・1764〜1772年

大火は「迷惑な年」のせい? 縁起担ぎのための改元
明和9年(1772)、江戸は大火に見舞われ、死者が1万5000人近く出るほどの大きな被害を受けました。そのため「安永」へと改元を実施。これは明和9年=「迷惑年」に通じるという噂が流れていたなかで大火が起こったことにより、縁起担ぎのための改元でした。

 

さて、来年に迫った改元。新元号はいったい何になるのでしょう? 元号の決定方法や新元号予想のコツなど、現代の元号に関する疑問を、山本先生にぶつけてみました。