山形県山形市で190年続く老舗菓子店「榮玉堂(えいぎょくどう)」をご存知ですか? その八代目であり、SNSで100万人を虜にするスイーツレシピを発信しているのが、小林啓吾さんです。この度、小林さんがすべてを注ぎ込んだ「最初で最後」となるレシピ本『秘密にしたい魅惑のスイーツレシピ』が発売されました。こちらの本、レシピ本では異例の初版4万部、発売前に3刷まで重版を決定して累計6万部となるなど、大きな話題となっています。
数々の出版オファーを断り続けてきた小林さんが、なぜ今、本という形を選んだのでしょうか。その背景には、現場とお客様を心から愛し、地元で地に足をつけて生きる一人の職人としての強いこだわりと切なる願いがありました。
お客様の声が一番の原動力。
「現場」と「動画」にこだわり続けてきた理由
小林さんは、地元・山形で有名な老舗菓子店の後継者であり、SNSで100万人以上のフォロワーを持つレシピ発信者。これまで数々の出版社からレシピ本のオファーを受けながらも、すべて断ってきたといいます。そこには、本を出さない明確な理由が存在していました。
「一番の理由は、お店の現場でスタッフと一緒にお菓子を作り上げることが、僕にとって何より大切だからです。何百個、何千個というお菓子をチーム全員で集中して作り、達成感を分かち合う。その現場の熱量こそが僕の原点である以上、本を作ることで現場を離れてしまうことへの悩みや恐れがありました」(榮玉堂八代目・小林啓吾さん、以下同)

もう一つは、お菓子作りを伝える「手段」へのこだわりです。
「細かな指先の動きや生地の質感などは、動画だからこそ伝わるものだと思っていて。『文字と写真だけになったとき、やっぱり今までの動画のほうがわかりやすかったと思われてしまうのではないか』という怖さがありました。そんなこともあり、レシピ本を出すこと自体を目標にはしていなかったんです」
しかし、ある出来事をきっかけに小林さんは今回の出版を決意します。それは、小林さんにとってかけがえのない大切な人との別れでした。
「昔から僕のことをずっと応援し、見守ってくれていた方が病に伏してしまったんです。お店のことは知ってくれていましたが、高齢だったこともあり、僕のSNSでの活動までは届いていなかったようで……それがずっともどかしくて。昨年9月、その大切な方は亡くなりました。
実は、その方は本を読むことが大好きでした。だから、少し遅くなってしまったけれど、自分ができるすべてを詰め込んだ本を作って残したい。そう思った矢先、出版社に勤めている高校時代の先輩から連絡をいただき、レシピ本を出すことを決意しました」
「プロのカフェレシピ」と「おうちの簡単レシピ」。
一冊の中に“ふたつの顔”を持たせた理由
小林さんが出版を決意するにあたり、譲れない条件がありました。それは「本に掲載する全レシピに解説動画のQRコードをつけること」。懸念していた「文字だけでは伝わりにくいであろう微細なニュアンス」まで妥協なく届けるための、小林さんのこだわりです。
「正直、制作にかかる工数はかなり増えますが、どうしても動画はつけたかった。今回、本当にたくさんのスタッフさんの力を結集して、素晴らしい一冊をつくり上げることができました。皆さん忙しい中で、掲載するレシピ選定から撮影に至るまで、僕が納得のいくまでとことん付き合ってくれた。
だからこそ、僕が最後に提供できる付加価値は、一つひとつのお菓子に動画を添えることだと思ったんです。本の発売ギリギリまで、寝る間を惜しんで撮影を続けました。一人でも多くの方に喜んでいただけたらうれしいです」

さらに本書の大きな特徴が、お店で提供している本格的なレシピ「カフェスタイル」と、家庭で気軽に作れる「簡単レシピ」の2パターンを掲載している点です。つまり、ひとつのスイーツに対して、2種類のレシピを載せているということ。
「カフェで提供しているような本格レシピは、お店の味を忠実に再現できる反面、材料の量や工程のハードルが少し高くなってしまうことがあります。たとえばバスクチーズケーキなら、クリームチーズをスーパーで2パック買い揃えないといけない、といったようなことです。
でも、お菓子作りって『気合を入れて作る日』もあれば、『おうちでサッと作りたい日』もありますよね。以前SNSで『クリームチーズ1パック(200g)使い切りの手軽なレシピが欲しい』という声をもとにレシピ発信したとき、すごく喜んでいただけた経験がありました」
お店で意見を聞いた際も、小さいお子さんがいるスタッフから「店長のお店のレシピはすごくおいしくて素敵だけど、日常で気軽に作れる簡単なレシピも見てみたい」と言われてハッとしたといいます。

「それなら、一冊の中に『本格的なカフェレシピ』と『おうちで手軽に作れるレシピ』のふたつが入っていたら絶対に喜ばれるんじゃないかと思いました。
ただ、この『簡単』と『本格』の境界線をどこに引くかが本当に難しくて(笑)。ふたつのレシピを載せる以上は、『簡単だけど、間違いないおいしさ』でなければ意味がない。クリームチーズの分量や混ぜ方など、ギリギリまで試行錯誤を重ねて、どちらを作っても満足していただける二重構造のレシピに仕上げました」
やっぱりお客様の顔が見たい。
コロナ禍で知った、お菓子を通して人と繋がる喜び
実は小林さんは、製菓学校を卒業後、京都でコーヒーの修行も経験したという異色の経歴を持っています。その根底にあったのは、「目の前のお客様に喜んでもらいたい」という純粋な想いでした。

「コーヒーの仕事に惹かれたのは、お客様の目の前で一杯を淹れて、その場で『おいしい』と喜んでもらえる距離感が好きだったからです。その後、仙台店の立ち上げにあたり、コーヒーの技術はスタッフに伝えて、僕は榮玉堂ならではのお菓子の開発と現場の指揮に専念するようになりました。
しかし、お店の規模が大きくなるにつれて、大切にしていた『お客様の前に立って提供する機会』が減っていったんです。そこに輪をかけて、コロナ禍でテイクアウトのみの営業に。あの頃が、お客様との距離を一番遠く感じた時期でした」
人と会えない日々の中でも、自分ができることで誰かに喜んでもらいたい——。そんな想いから始めたSNSでのレシピ発信が、やがて多くのファンの心を掴み、今回の出版へと繋がっていきます。
「自分が榮玉堂でお菓子を届けられるのは、すべてお客様あってのこと。お客様に喜んでいただけるのであれば、という想いで、僕の宝物であるレシピをすべて包み隠さずお伝えしています。唯一公開していなかった店の看板商品『あんチーズ』も、今回の本でついに解禁しました」

これが「最初で最後」の出版。
地元・山形から、目の前の「大切な人」へ届ける
「最初で最後」と決めて小林さんのすべてを注ぎ込んだ『秘密にしたい魅惑のスイーツレシピ』は、発売前から予約が殺到。レシピ本では異例の初版4万部、発売前重版も決定し、ついにAmazonの売れ筋ランキング1位(10月20日時点)に輝きました。まさに絶好調の小林さんですが、今後の展望を聞くと、意外にも「全国展開などは考えていない」とのこと。
『「もっと店舗を増やさないの?」とか「世界を目指さないの?」と聞かれることもあるのですが……正直、僕自身はそこを目指していなくて。
それよりも、自分が地に足をつけて生活していくこと。そして、大切な家族や仲間がいる場所で、一人でも多くの人に喜んでもらえるものを作り続けることを一番大切にしたいんです。
巨大なブランドを作るのではなく、山形という大好きな土地にしっかり根を張り、自分の手が届く範囲で一人でも多くの人に『おいしい』と『笑顔』を届けていく。それが、今も昔も変わらない僕の目標であり、生き方だと思っています」
おうちのキッチンから漂う、甘く香ばしい香り。この本を通じて、たくさんの家庭に温かな笑顔の時間が届くことを、小林さんは心から願っています。
「今回の本は、僕にとっても生涯大切にしたい相棒になりました。手にとってくださった方に『買ってよかった』と思っていただけるよう、全力で作った渾身の一冊です。特別な日にも、何気ない日常のひとときにも、ぜひこの本を開いてお菓子作りを楽しんでいただけたらうれしいです」
Profile

榮玉堂・八代目/小林 啓吾
山形県山形市にある江戸末期創業、190年続く老舗菓子店「榮玉堂」の八代目後継者。榮玉堂新業態としてのカフェ運営を中心に活動しながらもスイーツレシピを発信する。プロの味をいかにシンプルに作るかを研究し、動画に落とし込んで発信している。見た目も美しいスイーツを簡単に作れるレシピが人気をよび、SNS総フォロワーは100万人を超える(Instagram88万人、YouTube13万人。2026年10月現在)。
『秘密にしたい魅惑のスイーツレシピ』(ワン・パブリッシング)
山形で190年続く老舗菓子店「榮玉堂」の八代目後継者・小林啓吾さんによる初のレシピ本。カフェで人気のスイーツを、おうちで作りやすいレシピにして紹介しています。プロならではのおいしさを、できるだけシンプルな材料と工程で再現できるよう工夫。SNS総フォロワー100万人超の著者が届ける、見た目にも美しいスイーツレシピ集です。
取材・文=水谷映美 カメラマン=長谷川潤
